スランプです。
いや、マンネリスパイラルハマり込んでしまったのかもしれません。^^;
ここゆめなかは、これまで田舎町である安中のどこにでもあるような田圃や畑の風景を実際以上に美しく見せることを基本テーマとしてやってきたのですが(汗)、最近、モチベーションがすっかりと落ちてしまいました。
11月10日。
この日、久しぶりに安中駅の東側の田圃道を散歩してみました。
少し雲は多かったですが、それでも秋を感じさせる青い空の下、畑道をひとりぶらぶらと歩いてみました。
褐色の枯草の中に、ポツリと佇むオレンジ色に色づく樹木。
まるでスポットライトのようにそこだけ光を浴びて輝くススキ。
しかも東の空はこんなに高く青いのに…
撮れる写真はこんなのばかり。(汗)
なんだか、妙に凹みます。ガッパシ!
実際、さすがに撮るものがなくなってきてしまったのかもしれません。
以前は、何度か歩いた場所でも、また新たな発見があり、ひたすらそれにレンズを向けていたのですが、近頃は「ボウズじゃしょうないからとりあえずシャッター切っておくか!」ってな感じなのです。^^;
まぁ、そんなメンタリティーで挑んだ写真なぞ、ろくなものではないことはまさに自明でしょう。
と言うことで、写真を真面目に撮り始めて約5年、その原点に立ち返る為にも、これから時々、今、現在の写真に対する自分の考え方を整理してみようと思います。
考え方は色々ありますので、その是非はともかくとして感じるままに書いてみます。
まず、写真とは「表現」だと思っています。
目の前の光景をただ肉眼で見た通りに写しても、けして、それはそれを見た人に感動は与えられません。
理由はとても簡単です。
五感のうち視覚以外の全てを奪われてしまうのが写真だからです。
そこからは、その時、耳にしていた川のせせらぎも鳥のさえずりも聞こえてこなければ、頬に当る秋の心地良い風も吹いてこないのです。
しかも、それは小さなモニタや写真用紙の上で見られるだけです。
肉眼でも見えている時のようなスケール感も立体感もまったくありません。
なので、その聞こえないもの感じられないものを、どう写し、どう補い、どう切り取り、どう誇張して、どう表現するかに掛かってくるのではないかと思うわけです。
もっとも、写真には大きく3つ「記録」「報道」「芸術」の構成要素があり、撮り手の「表現」力が重視されるのは、芸術性であり、続いて報道性、そして、記録が重視される写真はむしろ撮り手の表現力は逆に仇になることも多々あることも承知しています。
それは、落雷の証拠写真で嫌という程、思い知らされました。(汗)
最近、後処理、いわゆるレタッチに関する質問を時々受けることがあります。
「レタッチはしてはいけないものなのか?どこまで許されるものなのか?」という趣旨のご質問です。
結論から言えば、それがその人の表現を深めることであれば、どこまでも許されるとくりまんじゅうは考えています。
しかし、それについてはまた別の機会にまたいつか!^^;
つまらん写真を貼り付けておいて、偉そうな戯言書いてすみませんです。m(_ _)m
いや、マンネリスパイラルハマり込んでしまったのかもしれません。^^;
ここゆめなかは、これまで田舎町である安中のどこにでもあるような田圃や畑の風景を実際以上に美しく見せることを基本テーマとしてやってきたのですが(汗)、最近、モチベーションがすっかりと落ちてしまいました。
11月10日。
この日、久しぶりに安中駅の東側の田圃道を散歩してみました。
少し雲は多かったですが、それでも秋を感じさせる青い空の下、畑道をひとりぶらぶらと歩いてみました。
褐色の枯草の中に、ポツリと佇むオレンジ色に色づく樹木。
まるでスポットライトのようにそこだけ光を浴びて輝くススキ。
しかも東の空はこんなに高く青いのに…
撮れる写真はこんなのばかり。(汗)
なんだか、妙に凹みます。ガッパシ!
実際、さすがに撮るものがなくなってきてしまったのかもしれません。
以前は、何度か歩いた場所でも、また新たな発見があり、ひたすらそれにレンズを向けていたのですが、近頃は「ボウズじゃしょうないからとりあえずシャッター切っておくか!」ってな感じなのです。^^;
まぁ、そんなメンタリティーで挑んだ写真なぞ、ろくなものではないことはまさに自明でしょう。
と言うことで、写真を真面目に撮り始めて約5年、その原点に立ち返る為にも、これから時々、今、現在の写真に対する自分の考え方を整理してみようと思います。
考え方は色々ありますので、その是非はともかくとして感じるままに書いてみます。
まず、写真とは「表現」だと思っています。
目の前の光景をただ肉眼で見た通りに写しても、けして、それはそれを見た人に感動は与えられません。
理由はとても簡単です。
五感のうち視覚以外の全てを奪われてしまうのが写真だからです。
そこからは、その時、耳にしていた川のせせらぎも鳥のさえずりも聞こえてこなければ、頬に当る秋の心地良い風も吹いてこないのです。
しかも、それは小さなモニタや写真用紙の上で見られるだけです。
肉眼でも見えている時のようなスケール感も立体感もまったくありません。
なので、その聞こえないもの感じられないものを、どう写し、どう補い、どう切り取り、どう誇張して、どう表現するかに掛かってくるのではないかと思うわけです。
もっとも、写真には大きく3つ「記録」「報道」「芸術」の構成要素があり、撮り手の「表現」力が重視されるのは、芸術性であり、続いて報道性、そして、記録が重視される写真はむしろ撮り手の表現力は逆に仇になることも多々あることも承知しています。
それは、落雷の証拠写真で嫌という程、思い知らされました。(汗)
最近、後処理、いわゆるレタッチに関する質問を時々受けることがあります。
「レタッチはしてはいけないものなのか?どこまで許されるものなのか?」という趣旨のご質問です。
結論から言えば、それがその人の表現を深めることであれば、どこまでも許されるとくりまんじゅうは考えています。
しかし、それについてはまた別の機会にまたいつか!^^;
つまらん写真を貼り付けておいて、偉そうな戯言書いてすみませんです。m(_ _)m
< Nikon D700 + AF-S NIKKOR VR28-300mm F3.5-5.6G >