そのまま南側へ歩いて行き、やはり昔よく遊んでいた田んぼへと向かいました。稲刈りが終わった秋から冬はここが僕らの遊び場だったのです。
田を囲むような石垣…記憶に残っていません。
けれど、ここから見える東邦亜鉛安中精錬所の風景は確実に記憶に残っています。
40年前にタイムスリップ。ちょっとノスタルジックです。
田んぼの畦をあるきながら碓氷川へ向かいます。
扇城橋です。
今は新しく掛け代わってしまいましたが、昔の橋はもっとRのきつい太鼓橋でした。橋も変われば川も変わります。当時は水かさも多く、橋の上から飛び込みが出来たほどでしたが、護岸工事が進み、川沿いに遊歩道も出来ていましたが、川に風情はなくなってしまった気がします。時代の流れ出仕方がないのでしょうが…少し、寂しくも感じますね。
川沿いを下に向かって少し歩くと農機具を仕舞っているような古い小屋がありました。鮮やかな水色とくすんだ朱色は何故かトタンの定番色。日本全国、どこへ行っても同じ色です。詳しいことは知りませんが、きっとなにか理由があるのでしょうね。
ここは遊歩道というより農作業の道なのかもしれません。^^;自転車ファーマーが颯爽と走り抜けていきました。
碓氷川には釣り人がいました。「鮎」でしょうか?長い釣り竿に笠がなかなか小粋です。本職みたいです。
川から元の道へと戻ります。
それにしても、どこもかしこも細い路地です。
やはりそんな季節なのでしょう、道沿いには紫陽花の花が行く先々で咲いていました。
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ちなみにこれは何という花ですか。知っている人がいたら教えてください。m(_ _)mそろそろ帰る時間です。
城橋の脇を通り、パチンコ「コスモ」から続く道に出ました。
ここはくりまんじゅうが通勤に使う道です。^^;なので、珍しくもなんともありません。
以前、東邦亜鉛の社宅があった場所へ入るところにある石垣です。まだ、最近出来たものです。その昔、ここは「山下のバアチャン」が住んでいたところで、くりまんじゅうは祖母に連れられ毎日のように行っていました。
家に上がり込むとまず向かうはお仏壇。そして、供えてある「ごはん」を必ず食べたそうです。三歳~五歳前後の頃ですから、薄っすらとした記憶しか残っていませんが…
近くに立派な邸宅があり、その庭に真白な紫陽花が咲いていました。
そんなこんなで、車に戻るとちょうど1時間と30分の散策でした。
そろそろラベンダーの季節も近づいてきましたね。
ということで「シリーズ・安中の裏道」第一回目「下の尻編」はこれにて終了です。
「下野尻」も歩いてみると本当にいい場所ですね。
次回は…どこを歩こうかな。
江戸時代 旧安中は野尻と呼ばれており、野尻の上の端が上野尻、下の端が下野尻という名前で残っている、、、、
返信削除という話を新島学園の淡路先生に教わりました。
私が住んでいる上野尻も愛宕神社、七曲がり、有田屋など
ありとても良いところですが、下野尻も改めて写真をみると古きを残している良いところですね。
写真楽しみしてます。
2年前の「あんなか祭り」に際して、伝馬町では「お祭りタイムズ」なる新聞を7、8回刊行しました。編集長はくりまんじゅうです。(^^;
返信削除その時、伝馬町の歴史を調べる為に、文化センターの図書館へ行き古い文献をあたりました。
なにより驚いたのは安中藩の城下の宿場町として、「伝馬町」は「下野尻」と「上野尻」の土地を藩が借りとって出来たという話でした。
えっ?下野尻というのは分かります。けれど、上野尻っていうのは・・・???
と思って、さらに詳しく探ったら、今は東西で下野尻と上野尻ですが、江戸時代以前は南北で下野尻村と上野尻村に別れていたそうなのです。
言い方を変えれば、今の「旧邸」は元は上野尻だったそうなのです。
武田に従い長篠の戦いで全滅した安中氏は江戸時代になるまでその居城であった安中城は廃墟となり、上野尻住民が田畑として使っていたそうです。
時代が流れ、徳川が世を治めるようになり、徳川四天王の一人・井伊直政の長男、直継(改名:直勝)が安中城主になると、その地域(現:旧邸)に住んでいた住民をすべて、谷津村から買い上げた土地(現在の上野尻)に移住させたのだそうです。(ビックリ!)
はっきりとした境界線までは書いてありませんでしたが、旧中仙道を南北に分けて、南(碓氷川側)は現在の伝馬町と谷津の境界辺りまでが下野尻、そして北側は城下から西側の九十九川周辺、やはり谷津の境まで辺りが上野尻だったのかもしれません。(小間や米山、高別当という九十九川沿いは上野尻村だった可能性もあります・・・)
これを知った時はちょっとした驚きでした。
PS.すでに「シリーズ・安中の裏道を歩く」谷津・上野尻編、伝馬町編は取材済みです。上野尻は広すぎなのでほんの一部ですが・・・そのうちにアップしま~す。