(旧碓氷峠を歩く その2)からの続きです。
まずはこれから歩く道を案内図で確認です。(画像をクリックすると1024サイズになります)
(ふむふむ、この道を真っ直ぐ行くと「霧積」に行くのか…途中で分岐して右に行って…後は一本道だな…)などと概略だけを掴みます。
では、出発進行!
熊野神社から群馬県側に入ると道は無舗装になります。道幅もそこそこある車も往来出来るいわゆる林道です。その道を進んでいくと、すぐに道は二手に別れます。
右へ下りていく細い道の入り口には「碓氷川水源地」という標識が書かれてました。(詳しいことは知りませんが、先ほどの地図で見る限り、そちらの道は「古道」のようです。)
とりあえず、霧積へ向かう車も通れるほどの幅の道の方を進んでいきます。
300mほど歩いた場所に『思婦石(おもふいし)』という石碑が立ってました。
説明によると、群馬郡室田の国学者、関橋守(せきのはしもり)の作で、安政四年(1857)の建立とあります。 (ごめんなさい、関橋守…知りません^^;)
『ありし代に かえりみしてふ 碓氷山 今も恋しき 吾妻路のそら』
こんな歌が書かれていました。本武尊が妻を恋い偲んだことを詠んだものと言われているそうです。
すぐ近くにはこんな標識も出ています。
歩き始めて、まだ300mですから、二人ともまだ元気ハツラツです。道端の山紫陽花の花を撮ったりしながら、歩きやすい道をしゃきしゃきと足取り軽やかに歩きます。
そして、熊野神社から1.2キロ。ここで「霧積温泉」方面に向かう道と「坂本宿」へ向かう道に二手に分岐します。
勿論、くりまんじゅうたちが向かうのは右手の「坂本宿」方面です。ちなみに「霧積温泉」まではしばらく車も通れるそうですが、霧積の2キロほど手前の美し平で林道は終点となり、あとは人がやっと歩け程の狭く急な道になるそうです。
ついでに書くと、この分岐点から霧積方面へ2、3キロ程度進んだ場所で「西条八十」が例の詩をうたったと言われています。
そうです。…「ママ~♪ドゥユゥ、リメンバー♪」でお馴染みになった人間の証明のあの詩です。
『母さん僕のあの帽子どうしたでせうね。ええ、夏碓氷から霧積へ行く道で落としたあの麦わら帽子ですよ。僕はあの時ずいぶん悔しかった。だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。』
“帽子” 西条八十作 (第一節)
くりまんじゅうもここからしばらくその歌を口ずさみながら歩いてました。(けど、歌いだししか知りませんので…同じフレーズの繰り返しです^^;)
さて、横道にそれてしまった話を戻しましょう。先を急がなければなりません。(^^;
坂本宿へと続く「旧中仙道」へ入るとそこから先は「車両通行止め」です。
その傍には「Uターンする場所もありません!」と大きく但し書きもされていました。
「大丈夫だろ。行けるだろ!」と入ってくる人がきっといるのでしょう。
少し調べたところ、ここまでくりまんじゅうたちが歩いて来たこちらの道は「和宮道」という新道だそうです。きっと皇女和宮が将軍家へ輿入れする時に造られた道なのでしょうね。勿論、その距離は1キロほど、その先で旧道と合流します。
道は平らで歩きやすい道です。軽自動車なら通れる程度の幅もあります。
なので…やっぱり捨てられてました。見た感じ、放置されて20年以上は経っている感じです。(^^;
突然、後ろからモトクロス自転車が凄い勢いでくりまんじゅうたちを追い越し行きました。けれど、追い抜き様に「こんにちは」と声をかけてくださりました。(いいぞ、青年!そうだ、挨拶は基本だ!)
『陣場が原』。
ここで古い中仙道とくりまんじゅうたちが歩いて来た和宮道が合流します。その案内板には「太平記に新田方と足利方の碓氷峠の合戦が記され、戦国時代、武田方と上杉方のうすい合戦記がある。笹沢から子持山の間は萱野原でここが古戦場といわれている」と書かれてました。
熊野神社から、ここまで45分。約2キロというくらいでしょうか。
すぐ先に「子持山」と書かれた立て札がありました。読み人知らずの万葉集がかかれています。尚、地図で見るとちょうどこの下辺りを「長野新幹線」(のトンネル)が通っているようです。
最近の遊歩道とまではいえませんが、そこそこ道幅のある整った道が続いています。
時々、雲の切れ間から太陽も顔を覗かせ、周囲の緑を輝かせていました。
道の行く先々に山紫陽花が咲いています。(けど、この日、レンズのVR(手ぶれ補正)がいつの間にかOFFになっていて、暗かったせいもありブレブレ写真ばかりです:_:)
その先にこんな札が立っていました。
「一つ家跡」。
ここに老婆がいて、旅人を苦しめたと言われているそうです。しかし、どんな老婆がどんな苦しめ方をしたのでしょうね。「引越し!引越し!」って布団を叩いてたわけじゃないでしょうが(笑)、まあ、いつの時代にもそういう方はいたのですね。
この先で初めて上ってくる人とすれ違いました。40歳前後の男性でした。
気軽に「こんにちは!」と声を掛けてしまいましたが、その形相は「声なんかかけんじゃあねぇ…こっちはそれどころじゃないんだ!」というものでした。
実によくわかります。その気持ち!くりまんじゅうも山に登る時はいつもそんな感じですから…
それでもどうにか「こ、こ…んにち…ばぁ…」と小さく呟いてくださいました。(ありがとう!)
そこから数百メートルくらい歩くと右手に古い壊れた建物が見えてきました。昔、なにかの旅館か商売でもやっていた様子ですが、もはや廃墟です。
それにしても、このバス、いったいどこから持ち込んだのでしょうか?軽自動車はギリギリ通れる程度の道幅ですが、大型バスはさすがに無理です。それとも以前はもっと道が太かったのでしょうか。まさかヘリで空輸したなんてことはないはずです。^^;
すぐ先の左手には古い別荘のような建物が2軒建っていました。写真ではそこそこに見えますが、実際は最低でも10年以上は誰も入った気配がない、もはや廃墟のような建物です。
「山中坂」。
ここから坂の傾斜もきつくなります。その立て札には「山中茶屋から子持山の山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂が山中坂で、この坂は「飯喰い坂」とも呼ばれ、坂本宿から登ってきた旅人は、空腹ではとても駄目なので、手前の山中茶屋で飯を喰って登った。山中茶屋の繁盛はこの坂にあった」と書かれていました。
相変わらず車が捨てられています。これは…トヨタの「コロナ」でしょうか。30年以上は前の車でしょう。
さらに進むと「山中茶屋(山中部落跡)」があります。
名前の通り「山の中」ですが、ここだけ平らでそこそこの広さもある場所です。
『山中茶屋は峠のまんなかにある茶屋で、慶安年中(1648~)に峠町の人が川水をくみ上げるところに茶屋を開いた。寛文二年(1662)には十三軒の立場茶屋ができ、寺もあって茶屋本陣には上段の間が二か所あった。明治の頃小学校もできたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っている。』とあります。
げげげ…小学校?と思っていると、その近くにプレハブ廃屋があり、その前には…
『江戸時代中期頃、ここに茶屋十三軒あり、力餅、わらび餅などを名物にしていた。またここには、寺や学校があり、特に明治十一年の明治天皇北陸巡行の節、教育の振興のために金二十五両を下賜された。(当時児童は二十五名であったといわれる)』と朽ちた板が新しい札の下に置かれていました。
そして、ここまでが、歩き出してちょうど1時間ほどでした。
その4に続く…
もう6年位前になりますが、上毛新聞の企画で、旧中山道ウォーキングの2日間コースに参加しました。
返信削除子供が小学校6年生で、少年野球を引退した記念に申し込みました。
歴史に詳しい方が同行してくださり、夜は金湯館で歴史の勉強会をしました。和宮様のお話も聞きました。
2日目は霧積温泉の金湯館から熊野神社を経て、松井田までの山道をひたすら歩きました。そういえば、なんでこんな所に車があるのか不思議でした。
熊野神社からはほとんどが下り坂なので、子供は野球で鍛えていたので平気だったのですが、私は下まで着く少し前位から膝が痛くなってしまい、やっとの思いで松井田駅までたどり着きました。
苦しかったけど、今ではとてもいい思い出です。
また挑戦しようかと思います。
ミチさん、こんにちわ。
返信削除明日の「その4」で書きますが…
旧碓氷峠道…山ヒルが凄いです。物凄い数、生息しています。
足元に潜んでいて、靴に取り付き、上って来て血を吸います。もっと恐ろしいのは、木の上からダイブしてくるらしいです。
実際、ぶ~こは山ヒルにやられて血だらけになってました。痛くも痒くもないので余計に始末におえません。(^^;
(くりまんじゅうは大丈夫でしたけど…倒木に腰掛けたりして、休むとやばいです。)
ということで、お出かけの際には「完全武装」をしてくださいね。
山登りの格好ってダテじゃあないんですね。今回、しみじみ思いました。