2009-08-27

赤穂四十七義士石像

 8月9日、日曜日
 チャップを連れて、ぶ~こと秋間(安中市)の山の中にある「赤穂四十七義士石像」に行って来ました。

 「赤穂四十七義士石像」というのは、市の北西部、東上秋間の岩戸山にある赤穂四十七義士石像。
 そう、あの忠臣蔵の「赤穂浪士」の『赤穂』です。

 この石像は赤穂義士・片岡源五右衛門の下僕・「元助」が浅野長矩夫妻と四十七義士の供養の為、二十年の歳月をかけて建立した四十七の石像と石宮だそうです。

 チャップを解き放せる人がいない場所、かつ夕方から出勤のぶ~こも行ったことがない近場ということで、ちょっくら車で行ってきました。(^^;

 いやぁ、懐かしいです。多分、中学生の時に来た以来です。(ちなみに今でも長岩のキャンプ場ってのもあるのでしょうか…?石像の近くだったような気もするのですが、場所が分からなかったです。安中榛名駅が出来てしまいすっかり道が変ってしまいましたので…)

 しかし、それにしても「なぜ赤穂浪士の石像が群馬の安中に…?」

 その理由をちゃんと知らなかったのでこの機会にとちょっと調べてみました。

 まず、最初にこの石像を作った「元助」という人のことから…

 元助は上州下秋間字館の百姓三右衛門の長男に生まれたそうです。

 幼くして母親を失い、その後、父三右衛門が後妻を迎え、いわゆる継母、なかなか家庭がうまくいかずに「ちくしょう。家を出てやる!」と僅かの金を懐に家出してしまったそうです。

 そして、伝助が向かった先は伊勢参宮。
 しかし、この辺が最近のバカ若者と違うとこ!家出して伊勢神宮に参拝するか!^^;
 あぁ、でも、当時の伊勢ってのは、京が東京なら、今の横浜みたいな感じなのかな?その辺、よく分かりませんが…

 まあ、それはともかくとしても、上州秋間村から伊勢神宮。時は江戸時代ですから現在の海外旅行より遠かったに違いありません。

 当然、道中、僅かな路銀は軽く使い果たしてしまうってのも道理です。
 なので、「右や左の旦那様~」と道行く人の情けにすがっていたですが、それを見かけた附近のルンペンたちに「てめぇ、どこのもんだ!俺たちの縄張りを荒しやがると承知しねぇぞ」といじめられていたそうです。

 「た、助けてけろ~

 江戸時代版ホームレスたちに襲われて、逃げ惑う元助。

 そこへ偶然通りかかったのが浅野内匠頭の代参に伊勢神宮へ来た片岡源五右衛門でした。

 「これこれ、お前たち、弱いものいじめをするのではない!」
 「お、お武家様!しかし、こいつがあっしらの縄張りを…」
 「まあ、これで旨いものでも喰え!」
と幾許かの銭を渡す源五右衛門。
 「よ、よろしんでガスか?」
 「よろしい、よろしい…」
 「ラッキー!!!!!!!!!!」
 (「!」マークが多くても、けしてyukiさんではありません。^^;)

 頭をさげさげ散っていく物乞いたち。

 で、鼻血を出しながら、残された伝助。

 「お、おありがとうごぜぇましただ!」
 「よい、よい…ちなみにお前はどこへ行くのだ!」
 「お伊勢様にご参宮をと思いまして…」
 「ふむふむ、それはよい心がけじゃ。ちなみにオヌシ、どこから来たのだ!」
 「あっしですか。あっしは、上州は秋間村からやってきました」
 「ほう、それは遠方からはるばる…感心じゃ…(秋間村なんて知らんけど…)ワシもこれから伊勢に参る。旅は道ずれ世は情け、袖すり合うのも他生縁。ならば一緒にどうじゃ?」
 「よ、よろしんでございますか?」
 「あぁ、上州秋間村のことなぞ聞いてもみたい(笑)甘露、甘露・・・(意味不明)」

 と、まあ、こんな会話をしたかどうかはまったく分かりませんが、とにかく、こんなような縁で、伝助は片岡源五右衛門の下僕となってそのまま赤穂に連れられ、主君大事と奉公に励んだそうです。

 時は、元禄14年3月勅使下向に際して、吉良上野介義央に辱められた浅野長矩は終に松之廊下で義央に対して刀傷に及び浅野は即日切腹、浅野家は断絶となり、赤穂城引渡しとなったというのは有名なお話です。じゃじゃん!

 主君を失い浪人となった片岡は、元助を伴って江戸へ下りました。
 勿論、吉良への復讐の期を狙ってのことですが、その心中は伝助にも明かさなかったのであります。

 時至って元禄15年12月13日、吉良邸討入りの前夜でした。

 悲願を果たそうとも、はたまた討ち死にしようとも、明日までしか自分の命がないことを知っていた片岡はその身を案じて元助を呼びました。

 「おい、元助!」
 「なんでしょう。ご主人様」
 「突然だけど、お前、首だ!」
 「へっ、く、首?」
 「そうだ。暇をやるから、上州へ帰れ!ここからなら、たかだか30里。田舎へ帰れ!」
 「そ、そんな、いきなりご無体な~!」


 そんなことで、伝助は片岡から突然、リストラ通告を受けたわけです。

 「し、死んでやる~!」

 突然、片岡から解雇を申渡された元助は悲歎のあまりその場で自殺しようとしたそうです。

 「まっ、待て、元助!は、早まるな!早まるではない!」
 「理由を教えてください。な、なぜ、私を…」
 「う~ん」
 「お、お願いですございます…仮にクビチョンパになろうとも、大変お世話になったこの身です。その訳も知らずにというのでは、あっしは死んでも死に切れません」


 伝助のその姿に、片岡もその忠心を認めて討入りのことを明らかにしたそうです。


 片岡の真意を聞いた伝助は討ち入りの伴を願い出たそうです。

 「私もお供いたします。是非、お手伝いをさせてください。吉良のヤロウメ、あっしも必ずやってやります!」
 「いや、元助。ならん、それだけは断じてならんぞ」
 「ご、ご主人様」
 「いや、ならんと言ったらならんのだ!」


 片岡は討ち入りを明かしましたが、涙を流してその伴を懇願する伝助に、その伴だけはけして許さなかったそうです。


 「今生の別れだ!伝助!」
 「ご、ご主人様!」

 ご存知の通り、その翌朝、赤穂義士は吉良邸に討ち入り、その本懐を遂げます。じゃじゃん!

 そして、片岡たちが切腹をして相果てた後、主人を失った元助は泉岳寺の墓前で泣く泣く七七の供養を行い、その後、生まれ故郷の秋間村に帰ってきました。


 元助は東上秋間字久保の観音道を仮寓として、剃髪をして道心となり、名を「音外坊」と改めます。
 俗世を捨てた伝助は、諸所を巡錫しては大方の喜捨を受け、その零細を蓄えながら東上秋間の岩戸山の霊地に、浅野長矩夫妻と四十七義士の石像を20余年の歳月を掛けて遂に建立したのです。

 その後、伝助は瓢然と諸国巡錫に出て、二度と故郷、上州秋間村には姿を見せなかったそうです。

 秋間村では明治時代に入り、戸塚信太郎、盛太郎の父子二代、帰らぬ元助の行方を数十年に渡って尋ね続けたそうです。

 そして、その長年に渡る捜索の結果、遂に盛太郎氏は元助有縁の地が外房和田浦花園にあることを知りました。

 諸国を巡錫しながら、最後は房州和田浦長香寺(現在の千葉の南房総市辺り)に足を止め、村民を済度していた伝助は、或る時、自分の天命を知り、黒滝不動の側に岩窟を掘ってその中に入り、自分から石蓋を覆いました。

 そして「予念ずれば火難諸災難を除け、家内安全、五福寿を増長せしむべし」と遺言を遺し、念仏鉦声裡に三七、二十一日間にて入定したそうです。

 時に享保17年9月30日、伝助享年53才であったそうです。

 花園黒滝不動の幽地に入定の箇所を選び、村民を火難より救わんとする三七、二十一日間の最後の祈念を終えて、静かに瞑目した向西坊元助は、今でも鎮火霊神と称えられているそうです。

 安中市教育委員会では、昭和39年9月12日附をもって「赤穂四十七義士石像」を「安中市指定史跡」としました。

 その後、秋間では史跡保存会を設立し、元助の供養日を3月14日と定めて、毎年3月25日には、供養祭が行われています。

 (参考文献:安中市郷土史家 中沢多計治氏稿中より)

 知らなかったでしょ。(笑)
 くりまんじゅうもまったく知りませんでした。^^:

 ということで、安中市民は郷土の誇り伝助さんをよくお勉強をして下さい。(笑)

 以上であります。

 < Nikon D700 + Ai AF-Nikkor 35-70mm F2.8D >

7 件のコメント:

  1. 郷土史を
    勉強できる
    夢の中

    巷では、五七五調の写真のコメントが流行っていると聞いたので、どうでしょう。

    熊注意!
    チャップは平気?
    秋間後閑

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  2. マイケルさん、こんにちは。

    「猟期には 秋間は危険 熊チャップ」
    確かにチャップを山の中で見かけたら「熊」に間違えられる可能性大です。
    で、町場で見ると…
    「熊よりも 黒毛和牛と いう感じ」

    >チャップは平気?
    「牛チャップ 獣の匂いに 一目散 なりはデカイが 気は小さし」

    お粗末^^;

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  3. いやぁ、ここまで詳しく読むのは初めてです!
    勉強になりました。
    でも元助になったり伝助になったり忙しいですね(笑)
    え?ひょっとして「もとすけ」って読んじゃいけない??

    ワタクシは確かココ、小学生の時、社会学習か何かで
    行った記憶があります。
    なんでかというと、お弁当持参で長距離歩かされて
    むっとしてたのと(笑)
    何故か帰り道、腹痛を起こして、用務員のおじさんに
    (今だったらお兄さんだったのだろうか??)
    自転車で送ってもらった記憶があるからなのです。
    学校に戻るより自宅の方が近かったのでそのまま帰宅。
    今はそんなに歩かせたりしないんでしょうね~~~?

    そういえば、今日から始業式ですね。
    あと、関係ないけどトリチューが潰れてちょっと寂しい秋ですね。
    ワタクシにとって「スーパーマーケット」デビューが
    トリチューだったので…

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  4. ははは・・・本当だ。
    目茶目茶ですね。^^;
    「元助」が正しいです。(よみはわかりません^^;)
    直す方がいいのか、直さない方がいいのか考えて…今は直さないことにしました。(笑)
    しばらくしてから、直します。

    安中の子供でしたら、一度は行っていると思います。(最近の子は知らんけど…^^;)
    しかし、なぜ用務員のオジサン(オニイサン)が同行されたのでしょう…それが疑問です。(^^;

    トリチュー…そうなんです。
    くりまんじゅうもとってもスーパーショックです。
    これで旧安中内にスーパーがなくなってしまいました。
    トリチューの「もち豚」旨かったのになぁ…
    ちなみにくりまんじゅうのスーパーマーケットデビューは現在、信用組合の場所にあった「中央スーパー」(その後、安中スーパーに名前が変わり、その後、コープになり、その後、消えました^^;)です。(笑)
    市内最初のスーパーでした。
    (まあ、その前はマキヘイかマノでした・・・スーパーじゃないけど^^;)
    遠足の副食200円までと言われて、あちこちのスーパーを巡って安いお菓子を探したものです。(笑)

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  5. トリチューの後は、いろいろ噂がたっていますが、やはり食品スーパーは欲しいですね。市内に1つ位は。

    くりまんさんの同業のW急便が集積所にというのも聞きました・・・。

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  6. ワタシもココ小学生の頃行きましたよ~。
    当時は、ただの石にしか見えませんでしたが・・。
    そんなお話があったんですね~。
    ( ..)φメモメモ
    そんで、キャンプ場はどこへ行ってしまったんでしょね~。中学生の頃、自転車で行った記憶があります。
    クマが出て、閉鎖になったときもあるキャンプ場でしたよね~。
    ノートの写真、最初、くりまさんの字かと思って、
    「やった勝った!」と思ったのですが、
    くりまさんの字では無かったっすね~。

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  7. マイケルさん>

    そうなんですか、色々と噂は上がっているのですか?(まったく世間の情報に疎い)
    W急便ってのはあると思います。
    先日、トリチューに行った時「Mショップの受付は終了しました!」と書かれた紙がカウンター上に貼ってあり、その横のウインドウにはW急便のポスターがベタベタと何枚も貼ってありました。
    ただ、集荷所としては、あのサイズは不要ですね。もしあるのなら工場移転かな。
    くりまん的にはちょっとこ洒落た高級スーパーになって欲しいです。採算取れるかどうかはまったく別にして、単なる希望ですが…^^;

    yuki さん>

    長岩のキャンプ場…ここへ行った後、ちょっと調べてみました。
    安中榛名駅の裏というか山を登ったところみたいです。
    ちゃんと道も通ってました。
    いつの情報か分かりませんが、夏季のみ利用可能…テント2張/5人無料 バンガロー5棟無料だそうです。(^^;

    ノートの文字は…けっこういい勝負しています。(笑)
    特に「夏休みのきねんになる」と書かれた文字は似ているかもしれない。(笑)
    しかし、yukiさん、先生の時もそうだったし、手書き文字に反応しますね。ははは…

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