浅間山の北北東、万座鹿沢口駅からおよそ南2キロほどの場所に「鎌原」という場所があります。
天明三年八月五日(新暦)、その春から噴火の予兆を見せていた浅間山が、遂に大噴火を起こして噴出した土石なだれが、麓にあったその鎌原村を一気に襲ったそうです。
蒲原村の高台にあった観音堂に逃げることができた人だけを残して、118戸570人の人々が暮らしていた村は、家も田畑もすべて埋め尽くされてしまいました。観音堂に避難した人は93人。その人たちだけが、奇跡的に助かりました。
村の大半の人が亡くなってしまった大惨事。それでも残された蒲原村の人たちは付近の村々の温い援助支えられつつも、残った人たちで新たな親子関係を築き、そして新たな夫婦の縁を結んで、力を合わせて泥流に押し埋められた村を復興させ、今日を迎えているそうです。
噴火から200年後の昭和54年、鎌原村の発掘調査が始まりました。
調査の結果、その観音堂の階段はそもそも50段あったそうです。けれど、残されていたのは15段、残り35段は土石の中6mの深さまで埋まっていました。
そして、その埋もれた石段の下に、2つの遺体が見つかったそうです。若い女性と年配の女性。親子だったのか、それとも嫁と姑だったのか、背負って逃げてきたように二人は折り重なるようになって骨となっていたといいます。
「鎌原観音堂」の前に石碑が立っています。
『天明の生死を別けた十五段』
その刻まれた文字をただ見つめたまま、しばらく動くことが出来ませんでした。
まだまだ、群馬の事も知りません。
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子供の頃、度々、浅間山が噴火していたような記憶が残っているので少し調べてみました。
「1972年」、「1973年」
多分、この辺りの年の噴火の記憶があるのかもしれません。
最近では「2004年」、お祭りの準備で公民館にいて、窓ガラスが突然、「ビリビリビリ」と震え出し、いったい何事が起きたのかと思いました。
「浅間の噴火じゃないか?」
そう一番最初に言ったのは「U司」くんだったような…
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